墓参完了・・・ホッとする
初めての奥能登の旅、深澤アートを観ることの他に、もう一つの大事な要件があった。ホントなら、この奥能登・珠洲への旅は、今から14年前、親戚の叔母たちと一緒に来るはずだった。
その年、そうです、2003年、能登空港が出来た年、私の街では、平安の昔から1200年続いている祭り、金砂神社大祭礼が10日間行われた年です、染色作家だったか、陶芸家だったか忘れたが、能登という雑誌にある幼児期の思い出話が載った。そして、当時放送されていた能登のラジオ局で、その思い出と、祭りの話をさせてもらった。祭りは、キリコとの絡みもあり、パーソナリティーだった「魔異夢」(まいむ)さんが、「お互い、日本の原風景のまつりで共通ですね」と〆てくれた。
その年、そうです、2003年、能登空港が出来た年、私の街では、平安の昔から1200年続いている祭り、金砂神社大祭礼が10日間行われた年です、染色作家だったか、陶芸家だったか忘れたが、能登という雑誌にある幼児期の思い出話が載った。そして、当時放送されていた能登のラジオ局で、その思い出と、祭りの話をさせてもらった。祭りは、キリコとの絡みもあり、パーソナリティーだった「魔異夢」(まいむ)さんが、「お互い、日本の原風景のまつりで共通ですね」と〆てくれた。
幼き日々の思い出話というのは、こういうことです、町はずれの川岸で、旅館兼食堂をしていた、親戚(祖母の兄と姪)に、泊まりに行って帰る朝、暑気受けないようにと善意で飲ませてくれた生卵、山奥までのガタゴト道でバスが揺れ、もどしてしまい、以来ずっと生卵が嫌いになってしまった私、やがて、その姪は。奥能登・珠洲市の旧家に、父を連れて嫁に行く・・・。何故嫁に行くことになったのか?太平洋戦争中、職業軍人として、奥能登から茨城の地に来ていた男性、TSさん、気立ての優しい姪に惚れた、そして求婚するが、「父を置いてお嫁に行けぬ」TSさんは情熱の男、「それなら御父上も一緒にもらう!」旅館を畳んで一大決心、奥能登に嫁いだ。
名前をミサチャンという。
私の父や叔母たちと従妹になる。まだ元気だった2003年頃、逢いに行けばきっと喜んでくれたはず。
しかし、実現しなかった。
私の父や叔母たちと従妹になる。まだ元気だった2003年頃、逢いに行けばきっと喜んでくれたはず。
しかし、実現しなかった。
父も叔母も、そして、数年前にはそのミサチャンもあの世に逝ってしまった。
せめて、線香の一本、お花の一把も供えてあげたい。それもまた、今度の旅の目的だった。
せめて、線香の一本、お花の一把も供えてあげたい。それもまた、今度の旅の目的だった。
幸い、TSさんの弟さんと、その奥様が珠洲市蛸島に、元気でいた。深澤作品を観た後、その家を訪ねた。とても親切に、今は、どなたも住んでいない空家のTSさんとミサチャンの家を見せてくれた。そして、二人が静かに眠る浄土真宗のお寺を案内してくれた。弟さんの奥様が、生前の二人の事を話してくれた。「TSさんは市役所を定年退職した後、一念奮起して、水彩画家になり、何度も個展をやりました。とても良い兄夫婦でした」

遠隔の地から、父を連れてでも、愛する人と添い遂げたかった奥能登の男は、やはり愛とロマンの方だった。墓参を終えて、私は、私を卵嫌いにさせた女性(ひと)は、生まれ育った故郷からずっと遠い奥能登で、幸せな一生を送ったことが解って、ホッとした充足を味わっていた。(つづく)