私を卵嫌いにさせた女性(ひと)


 その女性(ひと)は能登にいる。突端、蛸島にいる。きっとまだ丈夫でいるはずだ。


その女性に初めて逢ったのは私が4,5歳の頃だった。今から半世紀前。戦争が終わって数年、高度成長時代までに程遠い、モノがなく貧しい時代だった。二十歳をちょっと過ぎたぐらい、優しい、おんもりした顔立ち、父親が営む小料理屋を手伝っていた。
 茨城県北の古い街・常陸太田の在、藤田という所。お顔が面長な父親というのが私の祖母の兄だった。祖母に連れられてその家に初めて泊まりに行った。2,3日泊まったような気がする。料理屋兼自宅のすぐ脇は水路だった。綺麗な水が流れていた。近くに大きな川(山田川という)が流れ、水遊びの記憶がある。きっと夏だったのだろう。水路には小さな貝がたくさんいた。「これがシジミだよ。今晩味噌汁で食べようね」なんて言われたような…。

 帰る朝が来た。太陽がギラギラ輝き、白い服が眩しかった。その女性(すでに慣れて私はもうミサちゃんと呼んでいた)が言った。「マコちゃん、これから何時間もかかって帰るんだからダメだよ、これ飲んで行かなくちゃ、暑気受けちゃうから、ネ」。

出されたのは生卵だった。物価の優等生と言われる卵、しかし、当時は庶民が口にするのは稀な高値の花だった。
 その頃私たち一家は福島県境に近い奥久慈の山奥の小さな小学校に住んでいた。分教場が昇格、初代校長に父がなったからだ。山の天辺にあり、片道2時間以上もかかる町への買い出しなどは月に一度、こうした身の上を案じて、優しさからの生卵だったのだと思う。キョロリとした卵を三つも飲まされた。砂利道を行く乗合バスは揺れて、私はバスの中で何度も吐いてしまった。それ以来、数十年、生卵を全く食べられない。

 ミサちゃんが嫁に行った、という話を祖母から聞いたのはそれから何年か経ってからだったと思う。終戦間際、連合軍の本土決戦に備え、数多の職業軍人が軍需工場だった日立に近い我が街に来た。その中に能登出身の軍人がいた。戦争が終わり彼はまたこの街を訪れ、小料理屋の娘と恋に落ちた。祖母の話はこうだった…。
 「兵隊さんがお店に来てくれたんだと。みさ子に一目惚れしてしまったんだ。何度も何度も来てくれたんだよ。兵隊さんは遠く珠洲市蛸島の人だったんだ。嫁に来てくれ、嫁に来てくれ、とせがまれたんだと。ミサちゃんは断ったんだ。何度も何度もネ。父一人置いてお嫁に行くことは出来ません、ってネ。
 そしたら兵隊さんは言ったんだと、お父さんも一緒にもらうから。みさ子は毎日毎日考えたんだ。そしてとうとう決めたんだと、店をたたんで蛸島に二人で嫁入りすることをね」。


 奥能登の厳しい風土が生んだのだろうか、粘り強い青年の溢れるほどの恋慕の情にほだされて、娘と父は古里を捨て、能登の人となった…。

 時は流れてそれから50年。ミサちゃんの父も、祖母も、そして我が父も既に居ない。

 戦争の傷跡を埋め、経済が瞬く間に伸び、モノが溢れたのも夢のまた夢、深い陥穽に落ちたわが国は今、もがき苦しみの中で必死に打開の糸口を見出そうとしている。再生へのキーワードの一つに情報技術革命がある。瞬時に見知らぬ人と人とが連動・連結する時代、数年前開いた我がホームページが繋ぐ縁はどういう訳か、能登に住む方が多い。まさか、私を生卵嫌いにさせた優しい心のミサちゃんの因縁でもあるまいが、日々、能登の方々と電脳のやり取りをする度に、あの夏の日の遠い記憶が甘美なせつなさで甦る。
 
 早春のある朝、ミサちゃんとその父が住んでいたあたりを訪ねてみた。

道端で古老に遭った。異郷への親娘の嫁入りだっただけに「覚えてるよ」と老人は言った。老人の案内でそれらしき屋敷跡を見つけた。のどかな田園地帯をまっすぐな道が西に伸びていた。軍人はこの道を恋する娘の元に通い、ミサちゃんとその父もまた、この道を能登に向かった。見知らぬ二人を繋いだこの道はまた、今、私と能登を繋ぐ心の架け橋なのかも知れない・・・。


 傍に水路があったが水は濁ってシジミも雑魚も住めないドブになっていた。   悲しかった。

 

私はまだ能登に一度も行った事がない。そうだ、いつの日か、ミサちゃんが丈夫な内に能登に行こう、そして、この半世紀の思い出話に花を咲かせよう、能登の自然の美しさにたっぷり触れて、純日本が残る貴重な能登文化を垣間見よう、そう心に決めた。

 その時はきっと、あの夏の日の生卵が笑い話になるに違いない。
          (能登が好き 2002・6・15創刊号掲載)