父の帰還 私も旅を終える

父の自伝・夏山のしづくでは、なぜか戦争の終結を816日としていた。単なる勘違いなのか、生きているうちに聞いておくべきだった。5年でも10年でもこの宮古島で生活していく心構えをして、食料の自給自足作戦なども研究していた、その時、全員、兵舎の前に集合命令が出た。父は本の中でこう書いている。「何か重大な予感がした。隊長殿は静かに不動の姿勢をとられ、涙を流しながら陛下の終戦のお言葉を伝えられた。兵隊は全員、ただ唖然とし、気を失った態であった」。
その日から毎日のように、故郷に帰れる日を待ち焦がれていた。昭和2011月の末か、12月の上旬、ついに内地帰還の命令があった。自分で縫い上げたリュックに所要の品を詰め、リュックを背負って海岸へ歩いた。数百メートル先に、アメリカの輸送船が煙をはいて乗船を待っていた。本土帰還と聞いてはいたが、内心はどこへ運ばれるのか若干の心配と不安があった、という。しかし、富士の山が見えた時、兵隊すべてが安堵した。
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「甲板に上って久しぶりに見る本土の富士、だれもが、目頭を熱くした、声は出さなかったが両手をあげ、心の中で万歳を叫んだ。戦死された戦友に、この富士の雄姿を見せたかった」と父は書いている。
常陸太田・瑞竜の実家に着いたのは夕方だった。「父(父の父)は風呂に入っていた。父は、風呂で、声をあげて泣いていた。母は涙を一杯浮かべて、ご苦労だった、と労をねぎらってくれた。家内はただ、涙を浮かべていただけで言葉にならなかった・・・」父の自伝でそう書かれている。
 
 昭和2283日、私は、この瑞竜の家で生まれた。2歳半までこの家に住み、その後は、父の転勤で久慈川沿いの水郡線・西金に行き、小学6年で太田に戻るまで、10年を奥久慈の山の中で暮らした。
 
戦乱の嵐を果敢にくぐり抜け、九死に一生を得た父の姿を追いかけようとした沖縄・宮古島の旅が終わった。初挑戦の芝居チャレンジ、芥川賞作家・火野葦平作「ちぎられた縄」も成功裏に終わった。
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米軍基地の7割を沖縄に依存している。我々内地人ヤマトンチュは、沖縄の人々のために何ができるか、目下の私の結論は、沖縄の隅々まで知ること、そのためには沖縄に、頻繁に旅をすること、観光の旅大歓迎、旅は楽しい方が良い、私の音頭取りで、「沖縄にどんどん旅に行こう会」を創ろうと思っています。(おわり)