神風特攻隊・慰霊碑の前で・・・

宮古島は特攻隊の基地として有名だ。父は時折特攻機の飛び立つ光景を見たという。
 
「爆弾は太い針金で飛行機の胴体にしばりつけてあった。(中略)崇高な特攻機の方々の勇壮なお気持ちにただ頭の下がる思いである」と父は綴っている、そして、戦争を体験したものでしか言えない、次の言葉が、とっても重く聞こえます。
「大切な命を、先祖から戴いた、尊い命をなぜ捨てなければならないのか。生命より大事なものがあるだろうか。宮古島にいた時は、手を合わせ、拝して、特攻機を見送ったが、再び非人道的戦争こそ絶対排撃すべし、と島のことを書きながらそう思えてならない」(父の自叙伝・夏山のしづくより)
 
父が暮らしていたであろうと思われる「積間」(つんま)探訪を終えて、そうそう、また今度は一人で、ゆっくり、この「つんま」を歩き、ほかの古老からも昔話が聴きたいな、また来よう・・・そう私は思っていた・・・宮古テレビを目指してレンタカーを走らせた。

このテレビ局の裏手に、特攻隊の慰霊碑があると聞いていたから。
地元民に二回ほど聞いてその場所にたどり着いた。
あった・・・。私は深々と頭を下げて、手を合わせた。
イメージ 1
宮古テレビの取締役が、こんな随想を書いていたので、感慨無量だった。

宮古島市平良の市街地から少し離れた丘に旧日本軍戦没者の慰霊碑が幾つかある。その中に神風特攻隊第三龍虎隊の慰霊碑がある。しかし宮古から神風特攻隊が出撃したことはあまり知られていない。それもそのはず、実はこの特攻隊、本拠地は台湾の虎尾だ。
 昭和20年7月28日早朝、神風特攻隊第三龍虎隊8機は台湾・虎尾を出発。新竹、宜蘭を経由して石垣で給油し宮古に降り立った。この特攻隊、何故(なぜ)石垣から出撃せず、わざわざ宮古に降り立ったのか。それには訳があった。彼らの乗った特攻機は練習用の布張りの複葉機、通称「赤とんぼ」。粗末な練習機に250キロ爆弾を載せて長距離飛行するのは厳しく、最短距離から出撃する必要があった。しかも、作戦は月夜に限られた。

 宮古到着後夜11時。2度目の別盃(べっぱい)式を終えたうら若き隊員たちは、雲一つ無い月明かりの中、沖縄近海に群がる連合艦隊に向け飛び立った…。話はそこで終わるはずだった。が、後がある。離陸直前、1機の飛行機のタイヤがパンク。出撃は中止された。他の7機はそのまま飛び立ったが、2機がエンジン不調を理由に戻ってきた。そのうちの1機は滑走路脇の畑に不時着大破。隊員は重傷を負った。整備兵たちは不時着した飛行機の車輪を、パンクして飛ばなかった飛行機に移した。一旦、出撃を免れたはずのパンクした飛行機の隊員は、再び出撃する羽目になった。翌日、その隊員はベッドに横たわる不時着の隊員に「臆病(おくびょう)者。恨んでやる」と言い残し、月夜の闇に消えた。
 不時着の特攻兵は生還し、80歳余で最近亡くなった。彼は生前、宮古島を訪れることはなかった。彼は自宅の庭に慰霊碑を建て、7人の神風を供養し続けた。
(砂川健次、宮古テレビ取締役報道部長)

 

戦争とは、実に、過酷で、非情なものである・・・。そして、生死の別れ道、運命の岐路は、神のみぞ、知る・・・。

(つづく)