1年半宮古で暮らす父

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昭和19年7月16日だったという、父が宮古島・平良港に上陸したのは。それから1年半、この島で暮らす。下地国民学校での飛行場設定作業や、暗号事務が最初の任務だったそうだ。このエリアには、サトウキビの製糖工場があり、湿地はマラリア蚊の発生地、父も当然、蚊に刺されてマラリアに感染、40度の熱が何日も続く。「頭が痛いときたら話のほかだ、戦友が夜を徹して、頭に水をかけてくれた、枕には大きな芭蕉の葉を敷いてくれた、有難かった」と父は綴っている。

マラリアと闘いながら年が明けた。昭和20年である。部隊は下地から与那覇に移動した。この与那覇の人情に父は感謝していた。民家の方々が優しくて、お茶を御馳走してくれ、人々の常食だった美味しいものを食べさせてくれたという。まず、小豆とサツマイモを臼でついて団子にしたもの、山羊の肉、何年間も味噌に漬けておいた飴色のニンニク・・・そして、透き通った美しい海の色・・・
昭和20年3月から6月の沖縄本土決戦、約20万の兵士と沖縄人が犠牲となった運命の時、父は本島でなくこの宮古島に居たことが、助かった運命なのかもしれない。
 
軍隊といえば、上官が下の兵士を殴る蹴るなど、恐ろしい地獄を想像しますが、自叙伝によれば、父は人徳なのか、とても優しい神様のような上官に巡り合ったという。それは宮古島・与那覇にいた時のこと、129野戦飛行場設定隊が解体されて、渡辺隊という部隊が編成、父はこの隊に配属された。この隊長がまさに神様だった!渡辺さんという方は実は水戸から入隊した茨城県人だったから、特に優しかったのかもしれない。いや、父だけでなくすべての兵隊に同じような接し方をされていたらしいから、人間性の賜物だったのだろう。兵士に話しかける言葉も優しく、隊長や幹部だけで旨いものを食べてしまうなどということがなく、末端の兵士にまで同じように分け与えようとする心の優しさに溢れていたという。兵士は本当に腹をすかしていた。夜は腹が減って寝つけなかった。ある晩、2,3の戦友と兵舎を抜け出し、一里以上も離れたサツマイモ畑を探り当て、5、6本掘って、隠れ隠れて兵舎に戻り、飯盒で炊いて、やっと寝つける、そういう晩が続いていた、そうだ。サツマだけでなくタピオカというヤマイモに似たものを蒸かして腹をふさぐこともあったという。ある時、食料が全く無くなり、困っている時、渡辺隊長は、ほかの部隊に粘り強く交渉して、米俵の調達に成功、心行くまで米の飯にありつけたという。(つづく)