連載 宮古への旅 その1

昨年(2016年11月)茨城新聞の旅記事に釘付けになった。サンゴ礁と琉球石灰岩が造る宝石のような宮古ブルーの海の写真が大きく載っていた。
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この海で精製する天然の塩の記事にも惹かれた。宮古島には生きているうちに一度は行きたい、訪ねたいと思っていた。訳は私の出生に関するからだ。アジア太平洋戦争につながるからだ。私は昭和22年8月3日に生れた。出生地は勿論常陸太田である。少し北部の佐都(さと)で小学校の教員をしていた父は昭和19年2月1日、赤紙で召集された。
 

 昭和16年12月8日の真珠湾攻撃で始まったアジア太平洋戦争、2年も過ぎたら日本の敗色は日に日に濃くなっていった。昭和19年6月27日、兵士4600人、トラック50台、ガソリンの入ったドラム缶1000本を積んで南方支援へ向かう富山丸が鹿児島湾を出港した。父も乗っていた。29日の朝7時25分、米軍の潜水艦スタージョンから発射された魚雷3発が、徳之島沖で富山丸に命中、撃沈した。船体は二つに折れて沈み、兵士約3900人が海の藻屑と消え果てた。一隻の船の遭難死としてはタイタニックや戦艦大和を超える大惨事だったが、大本営によって秘密にされた。

 暗号が入った金庫番だった父は甲板から咄嗟に火の海に飛び込み、子供のころに覚えた水府流泳法で奄美大島に泳ぎ着いて助かった。まさに九死に一生を得た父、奄美から沖縄本島を経て、7月16日、宮古島の平良港に着いた。米軍の攻撃と40度を超すマラリアと闘いながら、この宮古島にて1年半、太陽と海、そして島の人たちの優しさに支えられながら生き延びた父、昭和20年暮れに無事ふるさとに戻れて、1年半後に私が生を受けた。私が誕生する最大の背景になっている宮古島などには一生に一度は絶対に訪ねたいな、とはずっと前から思っていた。今回、思い切ってこの旅を決意したのは、もう一つの訳、つまり正月から稽古していて、6月に初舞台になるお芝居出演だった・・・(つづく)